京都に生まれ育っていながら、むかしは自分が「京都人らしい」と思っていませんでした。
とりわけ分かりやすいのは「言葉」でした。
標準語調で話す両親の影響か、読みふけっていた本のためか
ところどころ関西弁のまじる標準語を話していると
小学生のころは友達に「なんで関西弁ちゃうの?」と指摘されたものです。
大学に入り、就職をして、まわりに他府県出身の方が現れ
また、敬語を使うシーンが増えるにつれて
私の「標準語」はどんどん「関西弁」になっていきました。
「~しはる」といえば俵万智さんの『方言のクッション』という随筆にあるよう、とても便利なもの。
「しはる」を皮切りに「しはんねん」「しはってん」。
新しい場所になじもうとするとき、知らず知らず言葉は変わっていくものだと実感しました。
そんな風に口にする言葉が変われば、おのずと気持ちも変わるものか
はたまた世界が広がり、より正確に立ち位置に気付けるようになったのか。
自分の話すリズムにある、どことない西のイントネーションや
直接的な言い方を避けるまどろっこしい言葉えらびや
からっと乾いた考え方はできないところや
ちょっとがんばって笑いに変えてしまうところ。
そのどれもが自分で培ったもののようでもあり
脈々と流れるルーツの突端のようでもあり。
言葉で自分を変えていくことも
自分が変わる際に言葉から変えていくこともできる。
言葉ってやっぱり面白くて不思議だなぁと思います。
これから出会う人や本や出来事にひたされて、まだまだ変わっていくのでしょう。
理不尽だ、と思った時は「なんでやねん」
疲れ切った時は「あー、ほんまえらい」
暑すぎる時は「ぶち暑い」
心のなかで方言のいいとこどりをして、今日もえぇあんばいにいきたいものです。