
真昼野、という作品の原寸大下図を描いているとき
「なつかしい場所」について考えていました。
この作品では
白く光るような野原・草はらを描こうとしています。
風がふきわたって、波のように細長い草がひるがえりながら光るような。
ふきすさぶ、というより風がわたっていく。
そうしたイメージです。

私自身、そうした野原で遊んだ記憶はなくて
似たものでいくとシロツメクサやゲンゲが咲いて、オオバコが生えているひらけた原っぱ。
それでも時たま思い浮かぶ野原のイメージは、
草の波がどこまでも続く、見たことのない景色です。
これは「ナウシカ」の金色の草原が近いのかなぁと思ったとき
あれもどこか心の原風景のように描かれているものだなと思いました。
嬉しく弾むような懐かしさ、というより
なにか深く心が留まるような、そんななつかしさ。
数学者・岡潔さんの著書で
「なつかしさ」と情緒について書かれているものがあります。
周囲と心を通わせ合って、自分が確かに世界に属していること。
そんな心のはたらきを岡さんは「なつかしい」と言い表されていて、
それはこの野原への感覚に近い気がしています。
また、先日行った万博記念公園にそびえ立つ「太陽の塔」。
岡本太郎が「爆発」と言い表した根源的なものも
この「なつかしさ」とおなじ場所にあるもののような気がしました。
太陽の塔は唯一のものとしてありながら、
どこか幼馴染のような、
昔から知っている・わかりあっているような、そうしたものを伝えてきます。

「なつかしさ」。
縄文土器のうねり、光る草はら、伸びていく木々の広がり、果てしない水の光景。
いつかどこかで見たのか、
これから見るのか。
わからないけれどとても近しいもの。
なつかしさに向かって、静かに力強く引き寄せられる。
そんな心の動きがあるのだと思っています。
