
前回のコラムで「絵画は発明」と書きました。
「発明」というと、高度な新しい技術発見、のイメージがあるので
絵画という個人的な「創作」にはちょっと大仰かもしれません。
たいして、
澁澤龍彦がいくつかの著書で折々触れているのはもっと大仰で、
芸術家は「神の真似をする猿」とも。
ただ、今はっきりとわかっていないもの、見えていないこと、
それらを目の前に出していく道中には
どこか世界の理に肉薄するような感じを覚えるのも確かです。
「料理」にたとえるなら
食材を使って美味しい一品を作る「調理」は制作。
それとは別に「美味しさ」を探し当てて、自ら産み出すのが発明にあたるような。
「言葉」にたとえるなら
語句や文法を駆使して、考えを言語化するのが制作。
それとは別に新しい言葉を創り出して想いを伝えるような。
見つめて、発見して、取り出して、編み出した時、
大げさながらも「発明」の感があります。

そんな「神の猿」は
この世界の上で物を造り、この世界の中でその物を見て、
なにか新しい別の世界が創れないか、見えないかと試みている。
完璧な創造ができないからこそ
すでにある「創造された世界」へ、より一層、目をこらす。
今も昔もそこここで、
感応し、観察し、制作し、その中で発明もする。
私もその「神の猿」の端くれなので
絵を考えていると、「発明」の入り口に立ったような感じを、稀に覚えます。
楽しいよりも、とてもどきどきする感覚。
そこから先に入って行けるかはわからないながらも、
これまでにも、たくさんの人がそこに立ったり入っていったような気もしたりして。
神様がいたとして、きっと完璧な創造主は
どきどきなんてしないだろうなぁと呑気なことを考えます。
一気につかみとれるものではなし。
そっと確かめながら、あわてずに、
その入り口に入っていけたらなと思っています。
