
先日出来上がった「花宇宙」のシリーズ。
取組んでいる中で浮かんできたことに「中也がいない」というものがあります。

かなり「自分言葉」なので伝わりづらいのですが、詩人の中原中也。
彼の作品の気配が、この花宇宙にはないのかもしれないな、と。
そんなことを感じています。
これまで、川や水や石を描く中で、そこにある光・明るさのイメージには中也作品がありました。
と言っても、私は彼を愛読しているわけではない(何なら、彼の作品にはちょっと苦手なものもある)ので、いつも頭に浮かぶのは『一つのメルヘン』ばかりです。
秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。中原中也『一つのメルヘン』
その、硅石のような光と、小石と、蝶の落とす影。
やがて流れ出す水。
私はこの光景にひどく共鳴して、自分の「絵具」として使っています。
また、それ以外でも「これは中也の詩にありそうだな」と探せば、描こうとしている絵に近いものが、彼の遺した作品から見つかります。
特に、蝶や湖の類は近しい。
そういう意味で、中也の気配はいつもどこかで感じており、生前のエピソードや性格や細かな情報を知らなくとも、なにか私と世界を考える時の、1つの足掛かりになってくれていました。

と、ここにきて「花宇宙」。
これには宮沢賢治が出てきています。
最初、描き始めた時はそうではありませんでした。
作品を詰め、テーマや方向性を考える中で、やっぱりこれは賢治作品かもしれないなと思うに至っています。
宇宙と花と石、ここまでくれば賢治さんが出てくるのは自然です。
宮沢賢治作品は、有名な童話だけ読んできました。
一応『新編 宮沢賢治詩集』(新潮文庫)を持ってはいるものの、彼の詩って、けっこう読みづらいんですね。
難解と言っても良いかもしれません。
圧倒的に豊富な語彙と、それを惜しみなく当たり前のように使うので、読む速度を落とさないと頭に入りません(笑)
言葉ばかりが走っていく。
また、その言葉に紐づくイメージは、賢治の主観にかなり依ったものもあれば、とても客観的なものもあり、なかなか手ごわいなと感じています。
どちらかといえば童話の方が、私の絵画制作のイメージには近く
『十力の金剛石』『双子の星』『四又の百合』『おきなぐさ』にちりばめられた言葉が非常に魅力的です。

「花宇宙」は、科学的な宇宙観・世界観が少しあるものなので、そういう意味で中也から遠いのかもしれません。
実際、中也がどうだったかはさて置き、私が彼の作品に共鳴しているのは「喪失を見続ける」まなざしだとか、消えてなくなるほどの明るさだと思っています。
一方で賢治作品は、そうした「甘え」を許さない冷徹さがあり、揺るがない姿勢があります。
けっこう頑固だなと(笑)
いずれにせよ、最後は私の作品になりますが、ここにきて中也がいなくなり、近づきがたかった賢治さんが浮かんできたこと。
なかなか面白く感じています。
逸話によれば、中也は賢治を敬愛していたそう。
自分にはない何かに深く心惹かれていたのであれば、私もまた賢治作品に共鳴することがあるのかもしれません。
おまけ

昨秋の神戸個展の時、最後に出てきたこの作品。
「何かにつながりそう」と思っていた「何か」の1つは今回の「花宇宙」のように思っています。