
「夜」をテーマに、紙の舞い降る作品に取り組んでいます。

また後日、こちらのHPかnoteで、そんな和紙の話もしたいなと思いつつ。
そうした技術・素材のこととは別に、描いていると色んなことが頭の中でめぐります。
そんな中には「死」についてのことがあります。

「死」は私の中でぐるぐるとめぐるものです。
日々、暮らす中で、表に浮かぶこともあれば底に深く沈んでいることもある。
楽しい時も悲しい時も、その感覚はどこかにある。
周りの変化に対応することが苦手な私にとって、死は最も激しい変化で、それが怖いからこそ、いつもどこかで誰かが死んでしまうことをふと考えてしまいます。
「夜」は周りがみんな死んでしまった後の世界のようで、ひどく重苦しいものだと、そう感じていた頃もありました。
「夜のひとひら」の作品たちを描いている時、「死んでしまった人に、何ができるのだろう」という問いかけが浮かびました。
「何もできない」というのがおそらくざっくりした答えで、そこにどう気持ちを傾けるのか、その表現方法は人それぞれかと思います。
それでも、そんな問いが自分の中から出てきた時に、改めて「死」のどうしようもなさを目の当たりにした気がしました。
こうして生きていることと、死ぬことの、あまりにも大きな違い。
知識や経験で、生死の落差・つながりにやわらかな見方もできるようになってはきたけれども。
どうして死んで、どうして何もできないのだろうと、その根本の問いかけには何も答えられません。

川の流れ、光のまたたき、石の川原、対岸、揺れる花たち。
「今」と「来し方・行く末」を描く中には、多分に「死」も含まれています。
これまで、水の向こうの空間や、光でかき消される中に重ねてきた「死」は、私にとって大きく厳かな存在です。
昨今、「死」の字自体が伏せられるなどする中で、これをどう言葉にして外に出して良いやら…と、そんな難しさも感じています。
けして、扇情的ではなく、重苦しいだけではないもの。
「死を想う」「memento mori」「もののあはれ」
そうした言葉にしても勿論良いのですけれども、それらを借りないでまだもう少し考えていたい「死」のこと。
「夜」という絵の中で、美しさを伴って描けたらと思っています。
