大きな月と草原の絵。武蔵野。


大阪・gallery yongouさまにて開催中の『シュレーディンガーの月』によせて、
少しの文章と、月にちなんだ絵画作品をまとめて公開いたします。


文章は、本展のリード文 “ 月は、そこに、在るのか ” をめぐる思いごと。

絵画は、展示作『月と鳥』を含む12作品。
それぞれタイトルからスライドショーページへと移動いただけます。


秋の夜長、
すこし不思議な月の景色を、どうぞゆったりとご覧ください。




シュレーディンガーの月

  • 会期:2026年9月10日(木) – 13日(日)、
       17日(木) – 19日(土)
  • 会場:gallery yongou(大阪市)






月は、ふっと出てくる。

夜の景色には、あたりまえのように。
昼の景色には、白昼夢のように。


夜、家に帰る途中の坂や、改札を出たあと。
閉めようと近付いた窓の外。

冬の朝、振り返った山の方。
明るく晴れた空の、浅い青の中に浸る。


日々、目にしていながら、見つければどきりとする。
色、形、大きさ、その美しさ。





物語の始まりは、月からやってきた。
光り輝く姫と、どうすることもできない月への帰還。

月の光はどこか別れを予感させる。
「時に、残月、光冷やかに」と中島敦が謳い、荒涼とした武蔵野には大きな月が落ちる。


澄んだ光は、夜の中でヘンゼルとグレーテルの白い小石を道標と変え、
竹生島の海上に、白い兎を駆けさせた。


「月見ればちぢにものこそ悲しけれ」と、憂いを贈る天上の穴は、
同時に、世界を等しく見つめる語り部でもある。
アンデルセンは画家と月の三十三夜を描き
蕪村は「月天心貧しき町を通りけり」と詠んだ。





月の物語をあげればきりがない。


地球を廻る大きな衛星の謎。
人類の新たな大航海時代の港。
原初の神の片目。


いずれにせよ、月は私たちを誘うものだろう。
日常の中に、ぽっかり空いた光の穴。
それを見上げながら、ここではないどこかを重ね
潮の満ち引きと同じリズムで、思いをめぐらせる。





「月は、そこに、在るのか」


観測するからあるのか。
誰も見ていなくてもあるのか。

見ようと見まいと、そこに月はあるだろう。
描くなら尚のこと、実際の「月」であることにそこまで意味を感じない私はそう答える。


それでも「本当に?」と、少し立ち止まる私もいる。





もしも、描いた作品たちから、月が消えてしまったなら。

そこには何も残らない。
月は深い夜を照らす光であり
過去のまなざしであり
それに映し出されたものすべてが、月の産物だとすれば。


「月が消える時は、まわりもぜんぶ消える時」


口ずさむように胸の内で呟きながら、ふと思う。
本展「シュレーディンガーの月」に『月と鳥』を選んだ理由の1つは
ここにあるのかもしれない。


夜に舞う白い紙と鳥。
その紙に浮かぶ月の影。
月ではなく「月の影」が入り込んだ絵。


「月は在るのか」という問いに、
「否」が突き付けられたとして。


『月と鳥』から「月の影」は消えるだろう。

それでも夜に舞う紙と、鳥は、消えないでいてくれる。

あの光源は、月ではないのだから。


今年、人類は久しぶりに月を周回し、その裏側を見た。
観測は、より詳細なものとなっていく。

とは言え、不実なことにも喩えられる月である。
誰も見ていない時のあの光は、いったい、どれほどに美しいだろう。



2026.9 髙井みいる


それぞれのタイトルから、スライドショーをご覧いただけます







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